「懸垂(チンニング)をするとき、速くやるのとゆっくりやるの、どっちが正解なんですか?」
水泳の陸上トレーニング指導をしていると、こんな質問をよくいただきます。実は、この「速度」こそが、トレーニング効果を大きく左右する重要な鍵を握っています。
ただ漫然と回数をこなすだけではもったいない!あなたの泳ぎのタイプや目的に合わせて、懸垂のスピードをコントロールすることで、水泳のパフォーマンスは劇的に変わります。この記事では、速度による効果の違いと、水泳に活かすための具体的な実践法をわかりやすく解説します。
懸垂の速度とトレーニング効果の深い関係

懸垂は、単に背中を鍛えるだけでなく、その「行う速度」を変えることで全く異なる能力を伸ばすことができます。
多くのスイマーが「回数」ばかりを気にしてしまいますが、実は1回にかける時間が筋肉への刺激の種類を決定づけています。
ここではまず、速度による基本的な効果の違いについて理解を深めていきましょう。
「速く」行うと瞬発力とパワーが向上する
体を一気に引き上げるような「速い懸垂」は、筋肉の瞬発力を高めるのに非常に効果的です。
この動作では、筋肉の中でも爆発的な力を生み出す「速筋繊維」が優先的に動員されます。短時間で大きな力を発揮する能力が養われるため、水泳における「スタートの飛び出し」や「ターンの壁蹴り」、そして「スプリント時の力強いストローク」に直結します。
ただし、速く動かすといってもフォームを崩してはいけません。正しい軌道を保ちながら、アクセル全開で引き上げる意識が大切です。
「ゆっくり」行うと筋肥大とコントロール力が増す
逆に、時間をかけて「ゆっくり」行う懸垂は、筋肉を大きくする(筋肥大)効果や、体をコントロールする力を養うのに向いています。
筋肉が力を発揮している時間(TUT:Time Under Tension)が長くなるため、筋肉内の血流が制限され、強い化学的ストレスがかかります。これが筋肉の成長シグナルとなります。
また、ゆっくり動くことで「今、背中のどの筋肉を使っているか」を感じ取りやすくなります。水中で自分の体の動きを繊細にコントロールする能力(ボディ・アウェアネス)を高めるためにも、ゆっくりとした動作は欠かせません。
筋肉の速筋と遅筋への刺激の違い
人間の筋肉には、大きく分けて「速筋(そっきん)」と「遅筋(ちきん)」の2種類があります。
・速筋(白筋):
瞬発力に優れているが、疲れやすい。速い動作や高負荷で働きます。
・遅筋(赤筋):
持久力に優れているが、大きな力は出にくい。ゆっくりとした持続的な動作で働きます。
懸垂の速度を変えることは、このどちらの繊維をメインに鍛えるかを選ぶことと同じです。自分の専門種目や課題に合わせて、ターゲットを変える意識を持ちましょう。
水泳に必要なのは「パワー」か「持久力」か
「じゃあ、どっちをやればいいの?」という疑問が湧くでしょう。
結論から言うと、水泳選手には「両方の要素」が必要です。
スタートやラストスパートでは「パワー」が、レース全体を通してフォームを維持するには「持久力」が求められます。したがって、どちらか一方だけでなく、時期や目的に応じて速度を使い分けるのが最も賢いトレーニング方法と言えます。
水泳の種目や距離別:おすすめの速度設定

水泳と一口に言っても、50mの自由形と1500mの自由形では、求められる体の機能が全く異なります。
陸上トレーニングである懸垂も、専門種目の特性に近づけることで、よりプールでの泳ぎに転化(トランスファー)しやすくなります。
ここでは、距離や種目タイプ別のおすすめ速度設定を見ていきましょう。
短距離(スプリンター)は爆発的な引き上げを重視
50mや100mを主戦場とするスプリンターにとって、最大の武器は「水をつかんで一気に運ぶパワー」です。
そのため、懸垂でも「爆発的な引き上げ」を重視しましょう。ぶら下がった状態から、合図とともに0.5秒〜1秒程度で一気に顎(あご)をバーの上まで持っていくイメージです。
このトレーニングにより、ストロークのキャッチからプッシュにかけての力強い加速感を養うことができます。
中・長距離は一定テンポで回数をこなす
200m以上の距離や長距離を泳ぐ選手には、疲労が蓄積してもフォームを崩さない「筋持久力」が不可欠です。
極端に速く動かす必要はありません。「1秒で上げて、2秒で下ろす」といった一定のリズム(テンポ)を保ちながら、15回〜20回といった高回数をセット内でこなすトレーニングが効果的です。
レース後半で腕が上がらなくなるのを防ぐため、一定の速度で淡々と動作を繰り返す強さを身につけましょう。
ストロークのリズムを意識した速度変化
実際の水泳のストロークは、一定の速度ではありません。水を捉える(キャッチ)瞬間は丁寧に入り、そこから徐々に加速してフィニッシュに向かいます。
このリズムを懸垂に取り入れるのも上級者向けのテクニックです。「ゆっくり引き始め、後半でキュッと加速する」というように、1回の動作の中で速度変化をつけるのです。
メモ:
実際の泳ぎをイメージしながら行うことで、脳と筋肉の神経伝達がスムーズになり、より実践的な筋力がつきます。
動作の局面で変える!「上げ」と「下ろし」の黄金比

懸垂の動作は、体を持ち上げる「ポジティブ動作(コンセントリック収縮)」と、体を下ろす「ネガティブ動作(エキセントリック収縮)」の2つに分けられます。
実は、この2つの局面で速度を変えるのがトレーニングの黄金比です。
怪我を防ぎつつ効果を最大化するための、理想的な速度配分について解説します。
ポジティブ動作(上げる時)は水を捉えるイメージで
体を持ち上げる局面は、水中で水をかいている局面に相当します。
ここでは「力強く、かつ素早く」引き上げることが基本です。ただし、初動でガクンと衝撃を与えるのではなく、広背筋(背中の大きな筋肉)がしっかり収縮するのを感じながら、スムーズに加速させていくのがポイントです。
イメージとしては、水中で重い水をグーッと押し切るような感覚で引き上げましょう。
ネガティブ動作(下ろす時)は怪我予防の要
多くの人がおろそかにしがちなのが、体を下ろす局面です。
実は、筋肉が伸ばされながら力を発揮するこの「ネガティブ動作」こそが、筋力アップにおいて最も重要だと言われています。ここでは「ゆっくり」下ろすのが鉄則です。
目安としては、上げるのに1秒かかったなら、下ろすのには2〜3秒かけましょう。これにより、筋繊維一本一本に強い刺激が入ります。
重力に負けて「ストン」と落ちるのはNG
一番やってはいけないのが、トップポジションから重力に任せて「ストン」と落ちるような下ろし方です。
これをやると、トレーニング効果が半減するどころか、肩関節や肘に強烈な衝撃がかかります。いわゆる「水泳肩」や怪我の原因になりかねません。
水泳選手にとって肩は命です。下ろすときこそ、ブレーキをかけるようにコントロールし、最後まで筋肉の緊張を抜かないようにしてください。
トップとボトムでの「静止」が安定感を生む
速度のコントロールに加えて取り入れたいのが、動作の切り返しポイントでの「一時停止」です。
たった1秒止まるだけで負荷は劇的に上がりますが、ストリームライン(けのび姿勢)の安定にもつながるのでおすすめです。
速度を意識する前に!初心者が守るべきフォームの鉄則

ここまで「速度」の話をしてきましたが、それはあくまで「正しいフォーム」ができていることが大前提です。
フォームが崩れた状態で速く動いても、狙った筋肉には効かず、ただ関節を痛めるだけになってしまいます。
初心者が陥りやすい罠と、速度よりも優先すべきポイントを確認しておきましょう。
反動(チーティング)は本当に悪なのか?
体を前後に振って反動をつけて上がることを「チーティング(キッピング)」と呼びます。
クロスフィットなどの競技では回数をこなすために技術として使われますが、純粋な筋力強化を目的とする場合、基本的にはNGです。反動を使うと、本来背中で引くべき負荷が逃げてしまいます。
特に水泳のベース作りにおいては、反動を使わずに「ストリクト(厳格)」なフォームで行うことが、水を逃がさないキャッチ力につながります。
可動域を犠牲にしてまで速くしない
「速くやろう」と意識するあまり、肘が伸びきっていない中途半端な位置から引き上げたり、顎まで上げずに途中で下ろしたりしていませんか?
速度を上げるために可動域(動かす範囲)を狭くするのは本末転倒です。水泳のストロークも、大きな可動域で長く水をかく方が推進力は生まれます。
「正しい可動域」>「速度」という優先順位を常に忘れないでください。
肩甲骨の動きと速度の連動性
懸垂で最も大切なのは「肩甲骨」の動きです。
引き上げる時に肩甲骨が寄り、下ろす時に肩甲骨が開く。この連動がスムーズに行われて初めて、速度を上げる意味が出てきます。
もし速く動かそうとして肩がすくんでしまう(首が短くなるような状態)なら、それは速度が速すぎます。肩甲骨をコントロールできる範囲内のスピードに落として練習しましょう。
実践!水泳力向上に効く速度別トレーニングメニュー

それでは、実際に毎日の練習に取り入れられる具体的なメニューを紹介します。
自分の目的やその日のコンディションに合わせて、以下のパターンを使い分けてみてください。
瞬発力強化「ハイスピード・プルアップ」
スプリント力やスタートの瞬発力を高めたい日におすすめです。
| 目的 | 瞬発力・パワー向上 |
|---|---|
| 動作リズム | 上げ:全力(0.5〜1秒) 下ろし:コントロール(2秒) |
| 回数設定 | 限界までやらず、速度が落ちるまで(5〜8回目安) |
| セット数 | 3セット(セット間休憩は長めに3分とる) |
ポイントは、スピードが落ちたらそこでセットを終了することです。疲れた状態で無理に続けると、遅筋繊維が働き出してしまい、瞬発力トレーニングの目的から外れてしまいます。
筋力ベースを作る「スロー・エキセントリック」
オフシーズンや、基礎筋力を徹底的に鍛え直したい時におすすめです。
| 目的 | 筋肥大・腱の強化・フォーム改善 |
|---|---|
| 動作リズム | 上げ:1〜2秒 下ろし:3〜5秒かけてゆっくり |
| 回数設定 | 8〜10回 |
| セット数 | 3セット(セット間休憩は1〜2分) |
下ろす時間をたっぷりとることで、翌日に強烈な筋肉痛が来るはずです。肩周りのインナーマッスル強化にもなり、怪我に強い体を作ります。
ストリームラインを維持した「アイソメトリック」活用
速度という概念から少し離れますが、「動かない」トレーニングも水泳には有効です。
懸垂のトップポジション(一番上の状態)で、5秒〜10秒間キープします。この時、足がぶらつかないようにピタッと揃え、お腹に力を入れてストリームラインの姿勢を作ります。
水中で姿勢を維持する体幹力と、フィニッシュで水を押し切る維持力が同時に鍛えられます。
まとめ
懸垂の速度は、ただのペース配分ではなく、得られる効果を決める重要な要素です。
「速い懸垂」は瞬発力とパワーを、「ゆっくりな懸垂」は筋肥大とコントロール力を養います。水泳選手にとって理想的なのは、上げる時は力強く加速させ、下ろす時は重力に抗ってゆっくりコントロールするという組み合わせです。
自分の専門種目や課題に合わせて速度を意図的に使い分けることで、陸上トレーニングの質は格段に上がります。まずは今のフォームを崩さない範囲で、少しずつ速度に変化をつけてみてください。その意識の変化が、必ずタイム向上という結果につながるはずです。



